「上滑りの近代」ならぬ「上滑りのアフターコロナ」

「新しい生活様式」という言葉が話題になっている。専門家会議が新型コロナウイルスの拡大を押さえるために提示した日常生活の「実践例」だ。

「新しい生活様式」「ニューノーマル」に共通する「新しさ」

生活様式とは、そもそも上からのお達しで決まるものではなく時代時代の社会状況や文化が複雑に絡み合って構築されるものである。「新型コロナウイルスが拡大しないために気を付けたいこと」のように簡単な言葉でいえばいいのに、わざわざ「生活様式」などと難しい言葉を本来の意味とは異なるカタチで用いる理由はよくわからない。

それにもましてよくわからないのは「新しい」のほうである。新型コロナウイルスと共生していくフェーズに入った欧州の国では「ニューノーマル」という言葉が広まっている。「新しい日常」とでも訳せるだろうか、コロナ前の日常とコロナ後の日常は違うものになることを示している。

「新しい生活様式」「ニューノーマル」この2語からわかるのは、日本でも諸外国でもコロナ収束後の世界は”なにかが新しくなる”と思っている人がいるということである。コロナ前が「古い」日常となり、コロナ後が「新しい」日常となる。果たして本当に「新しい日常」は訪れるのだろうか?

東日本大震災と新しい日常

2011年3月11日に東日本大震災が起こった。あのときも人々は「東日本大震災後の日本は、それまでとは変わったものになる」と言っていた覚えがある。計画停電、コミュニティ・絆・つながりの復権、震災への対応などなど、たしかに直後は大きく何かが変わるような感覚になっていた。

しかし東日本大震災から9年が経ったいま振り返ると、震災前と後で何が大きく変わったのか具体的に挙げられる例は少ない。日本では原子力発電は0になったわけではないし、地方移住もその前から進んでいたし、計画停電や自粛は1年もすれば終わっていた。

人間は非常に忘れっぽい生き物である。記憶を思い出させるシンボリックなものに触れればかろうじて記憶は甦るが、多くの人は日常生活で震災を意識することはないだろうし、震災をキッカケに何が古くなり何が新しくなったのかは覚えていない。ただ漠然と「なんとなく新しい日常が始まった」その程度の記憶なのである。そもそも何も変わっていないかもしれないのに。

第二次世界大戦と開国にみる「新しさ」

1945年、日本は敗戦国として第二次世界大戦を終えた。戦後はサンフランシスコ講和条約までGHQの支配下で「戦後の新しい日常」が整えられた。このとき日本は大きく変わり「新しくなった」ように思う。領土を増やそうという植民地政策は終わり、絶対的な神としての天皇は私たちと同じ人間となり、新しい憲法が誕生した。

1853年、アメリカはペリーを派遣し江戸幕府に鎖国政策の放棄を要求した。軍事的な圧力も用いながら1854年、日米和親条約を締結して日本は開国した。鎖国時代の日本と比べて開国後の日本は「新しくなった」ように思う。長く続いた幕府支配が揺るぎ初め、明治維新へと向かっていき日本は近代へと突入したのである。

「上滑りの近代」ならぬ「上滑りのアフターコロナ」

日本は歴史的にみて「自らの力で新しい時代をつくった」ことはあまりない。外国からの圧力や抗いようのない時代の波に流されある種の「外圧」によって新しい時代をつくっていった。夏目漱石は欧米諸国の近代化と比較して日本の近代化を「上滑りの近代開花」と評し、表面上は近代化しているものの根底では新しくなりきれていない姿を見出した。

新型コロナウイルスは外国からもたらされ、現代医療をもってしてもある程度の感染拡大は防ぐことができない「外圧」であると捉えられるかもしれない。一方で対応は各国が判断して行うもので「新しい生活様式」は外国からの圧力で決めたものではなく、一連のコロナ対策も日本が自ら判断して行っている。

夏目漱石が「上滑りの近代開花」と評したのと同じように、いま日本は「上滑りのアフターコロナ」に向かって進んでいるようにみえる。これまで受け入れられなかった技術が世の中に実装され、新しい生活様式が決まられ、不況によって勝ち組と負け組の分断が浮き彫りになっている。表面的には「新しい」世界が訪れるような希望をいだかせる現象がみられるが、根底の部分-人々のマインド-は変わらず古いままである。

最後に-コミュニティインフレーションと共同体の共生-

「新しい生活様式」が促すのはルールに基づく相互監視の促進であり、それは近現代の日本が忘却し消し去ろうとした共同体の悪しき側面を復活させるものになるかもしれない。一方では人間関係としてのコミュニティがインフレーションを起こし、もう一方では共同体的なものが復活する。

ここに「新しい」とわざわざ明示することの気持ち悪さと、訪れることがない幻想としての「新しい日常」の軽さをかんじるのである。いくら「新しい」と言葉でつむいでも世の中は新しくならない。外圧によってしか変われない国に本質的で主体的な変化が今後みられるのか、それとも結局は上滑りのままあるとき根元から崩れ落ちるのか、幻想に惑わされ地に足付いた未来を描いていこう。

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この記事を書いた人

Masato ito

1996年長野県生まれ。大学在学中に自身が代表を務める事業が長野県地域発元気づくり大賞を受賞。現在は一橋大学社会学研究科にて国内移住に関する研究を行いながら、KAYAKURA代表として長野県を主なフィールドに観光インバウンド・移住・まちづくりのコーディネート・プランニング・調査・PRを多数手がける。2019年からは都内の企業と地方の企業や自治体をつなぐ新たな取り組みも開始。訪日観光客向け観光情報発信サイトNAGANO TRIP運営。池田町第六次総合計画審議委員。週刊SPAや公益社団法人 日本観光振興協会発行『観光とまちづくり』など寄稿多数。2019年4月から東京都国立市と長野県池田町の2拠点居住実践中.