共同体2.0-それでもコミュニティはつくれない-

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新型コロナウイルス拡大防止のためにさまざまな策が講じられ始めて早数ヶ月。外出自粛によるストレスの高まりは、一方でオンライン飲みのような新しいカルチャーで紛らわされ、もう一方では自粛警察や相互監視のような他者への攻撃性の高まりというカタチで姿を現している。

コロナが改めて顕在化させた現代日本の複雑さの1つに、オンラインサロンや勉強会などに代表される「コミュニティ」のインフレ状態と、戦後日本が置いていきたくても置いてこれなかった「共同体」マインドの顕在化があると日々感じている。二項対立では語れないその構造と、結局、日本人はコミュニティはつくれないのではないかという疑問を書いていく。

共同体の光と影

共同体とは血縁や地縁に基づいて自然的に発生した閉鎖的な社会関係、社会集団を表す言葉である。古くは「イエ」とよばれた日本独特の家族形態、地縁に基づく町内会などがこれにあたる。第二次世界大戦時に動員の手段として共同体としての町内会が機能したことを受けて、戦後日本社会は共同体を過去に置いてこようとした。

共同体の光の面として、目的や金銭的な理由に基づかない助け合い・支え合いがあった。醤油がなくなったら隣の家に借りに行く、お互い様の精神は共同体をあたたかなものとして存在させ居場所がなくなっても最後には共同体に戻ればきっと大丈夫、そんな気持ちを多くの日本人がもっていた。

一方で共同体には影の面がある。支え合いを前提とした「閉鎖的」なつながりだからこそ、共同体の維持を脅かしたり助け合いをしない人は攻撃の対象として認定された。常に相互監視の目を光らせすべての情報が共同体内で共有されている、そんな空間だった。

いまでも地方の山間の集落や歴史ある地区を訪れると同じような体験をすることはある。知らない車や人が通りとジーっと見られたり、移住者に対して冷たかったりといった話はよく聞く。共同体がないと生きていけない人々は現代にも多くいて、彼らにとっては共同体を守ることは絶対的な使命なのである。

コミュニティの光と影

1917年に社会学者のマッキーヴァーはコミュニティとアソシエーションを二項対立で捉え、コミュニティに日本における共同体のような姿を見出し、アソシエーションには目的を共有する企業や結社のような姿を見出した。しかしコミュニティの定義は共同体以上に曖昧であり、1954年の研究では「人が集まっていること」以外に全てに共通する定義は何もなかった。

時代を経てコミュニティ概念は拡張され続け、現代では「ある程度の領域性」があり、そこで「コミュニケーション」が交わされ、「共通の絆」でつながっていればそれは全て人間関係としてのコミュニティと捉えられている。Z. バウマンの言葉を借りればコミュニティは「あたたかな語感」によって人々を引きつける魔法の言葉になっているといえる。

コミュニティにも光と影はある。共同体と比べて比較的自由度が高く、個々人の権利が保障され、入ったり出たりのラインが低いことがコミュニティの良さとしてあげられる。

「つながりは欲しいけれど、”めんどくさくなくて””話が通じる””弱い繋がり”がいい」と考える現代人にとって、コミュニティという言葉で表されるさまざまな集合体は孤独を紛らわしアイデンティティさえ付与する空間となっているのである。

コミュニティにも影の部分はある。最近では企業や一部の個人が利益のためにコミュニティをつくりコミュニティをつかって、熱心なファンや価値観を共にする人たちからお金を巻き上げるようなビジネスモデルも多くなっている。マッキーヴァーが想定したコミュニティと対極にあるアソシエーションのツールにコミュニティが成り下がった側面があるともいえるだろう。

共同体からコミュニティへ、ではなく共同体から共同体2.0へ

共同体にもコミュニティにもグラデーションはある。単純な二項対立で共同体とコミュニティを語ることは避けなければならないが、一方で共同体とコミュニティは異なる特徴をもっている。

相互監視の目を光らせ抜け駆けを許さない共同体に対し、個性と自由を容認するコミュニティ。閉鎖的で全ての情報が共有される共同体に対し、一定程度開放的でメンバー全員の名前も顔も知らないことがあるコミュニティ。無条件の強いつながりで形成される共同体、目的ベースで弱いつながりで形成されるコミュニティ。共通しているのは人が集まっていることぐらいだろう。

現代日本は共同体的な集団からコミュニティ的な集団に移行しようと必死だった。しかし3,11やコロナなどの社会的危機のたびに明らかになるのは、地縁や家族のつながりをベースとした共同体の復権を望む声と、一方でコミュニティのさらなるインフレを望む人たちの声、どちらも大きいという事実である。

この状況をみて、共同体とコミュニティは二項対立で決して交わらないものと捉える人も多いが、ここで提示したいのは共同体マインドを持った人々がコミュニティを形成しているという視点である。

他者への不寛容性が増し島宇宙化した世界を生きる私たちはあの頃と変わらない共同体マインドを誰もが持ってしまっている。そんな共同体マインドをもった人々が理想を求めて形成しているのがコミュニティなのである。Z. バウマンはコミュニティを決して存在しないのに追い求めてしまう存在として描いた。

私たちが向き合わなければならない事実は、コミュニティを形成する人々はいまだ共同体マインドであるという事実である。これはそう簡単には変わらないばかりか、さらに過度になってきているという分析もできる。共同体マインドをもった人々がつくるコミュニティは結局のところ「共同体2.0」にしかなれないのである。

共同体2.0と書くとアップデートしているようにみえるが、実はもとに戻っているだけかもしれない気さえする。コロナ拡大防止のために一心不乱に自粛し、抜け駆けするものには厳しくあたり、ガス抜きのために閉鎖的空間で限定的な共通言語でコミュニケーションをとる、その光景は第二次世界大戦時に動員の手段として機能した共同体と同じ匂いを感じさせるものがある。

最後に-僕らにコミュニティはつくれない-

コミュニティ研究をしていながら「コミュニティは今なお日本にない。あるのは共同体2.0だ」というと、多くの人に叩かれるかもしれない。しかし現実問題として私たちはコミュニティと呼ぶ集団のメンバーを心の奥底から信頼できているだろうか、社会的相互作用は行っているだろうか、絆はそこにあるだろうか。いま一度、立ち止まってコミュニティを考え直す必要がある。

この記事を書いた人

Masato ito

1996年長野県生まれ。大学在学中に自身が代表を務める事業が長野県地域発元気づくり大賞を受賞。現在は一橋大学社会学研究科にて国内移住に関する研究を行いながら、KAYAKURA代表として長野県を主なフィールドに観光インバウンド・移住・まちづくりのコーディネート・プランニング・調査・PRを多数手がける。2019年からは都内の企業と地方の企業や自治体をつなぐ新たな取り組みも開始。訪日観光客向け観光情報発信サイトNAGANO TRIP運営。池田町第六次総合計画審議委員。週刊SPAや公益社団法人 日本観光振興協会発行『観光とまちづくり』など寄稿多数。2019年4月から東京都国立市と長野県池田町の2拠点居住実践中.