よそ者としての移住者と地元住民の相互行為に関する社会学的考察 その2 -郷に入っては郷に従えを平等の側面から再検討-

スキマ信州

その1で、農村側住民と移住者の関係性について語られてきた歴史と、どうして摩擦が発生してしまうのか、よそ者としての移住者は地域にどのような効果を与えるのかなどをみてきた。

連載2回目の今回は、1998年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者アマルティア・センが1992年に発表し日本語では1999年に発刊された『不平等の再検討』という書籍の中での議論と、農村側住民と移住者の関係を語るうえで欠かせないテーマ「郷に入っては郷に従えをどう考えるか」を筆者なりに関連付けて考察を深めたいと思う。

貧困の研究でノーベル賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センとは?

アマルティア・センは、1933年にインドで生まれ現在でも存命の経済学者である。政治学や倫理学、社会学にも精通した越境的視点の持ち主でもあるセンは、アジア初のノーベル経済学賞受賞者であり、1994年にはアメリカ経済学会会長を務めた。

センは9歳のとき、200万人を超える蛾死者を出したベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込んできたことに衝撃を受け、インドはなぜ貧しいのか、貧困と飢餓はどうして起こってしまうのかという研究テーマを意識していくこととなった。

センが著書『不平等の再検討』で論じた自由と平等の議論

センは、1992年に発表した『不平等の再検討』という本の中で「自由」と「平等」について考察を深めている。本書を通してセンは「潜在能力アプローチ」という独自の方法を用いて不平等と貧困の測り方や捉え方を再検討していく。その過程で、センは不平等を再検討するためにはまず初めに「何の平等について話をしているか」を明らかにする必要があると主張する。

「何の平等か」という議論は、経済学や政治学における問いに対する答えの違いが平等に対する領域ごとのアプローチの違いであることに目を向けさせる。例えば、リバタリアンであれば自由が平等に与えられることであり、経済的平等主義者であれば所得や時の平等であり、功利主義者であれば帰結主義的最大化の原則に則って全ての人々の効用に同じウェイトを付与することを平等とする。これらの議論から明らかになるのは、基礎的平等をどの領域に求めるかは特定の要求を主張し他のものを退けるという実践的な場面で決定的に重要になるということである。

人間の多様性と平等を判断する際に重要になる領域の複数性

「なぜ平等が重要なのか」「何の平等なのか」の議論を進める際に、上記の領域ごとの平等の設定の違いが、要求の取捨選択の基準になることを論じたが、同時に忘れてはならないのが人間の多様性である。例えば、従来のロールズらのような基本財をモノサシとして用い所得を平等の判断に使う場合、所得の多い少ないで貧困を規定することはできるものの、障害やジェンダー、地域差による不平等を考慮することは難しい。自由と平等を論ずる際には、これらのことを念頭において論じていく必要がある。

農村側住民と移住者の関係性と『不平等の再検討』について

ここまで、移住とは全く関係なさそうな経済学の話をしてきたが、これから不平等の再検討において論じられた平等と自由の話、そして多様性と複数性の話を移住の議論と結びつけて考察を深めたいと思う。

移住者が農村側住民が暮らす地域移り住む際、古くから「郷に入っては郷に従え」という諺があるようにある種の「制約」(見方によっては不平等と自由の制約)を地域で受けることになる。例えばそれは、古くからの慣習を守ることであったりお祭りに参加することであったり自治会に加入することであったりするだろう。この制約は、地域を維持するために古くから構築されてきたシステムであり、システムは新たに参画した移住者に対してもシステム則り逸脱値になることを良しとしない傾向にある。

この場合、制約は地域における「平等」を維持するためのシステムともいうことができる。地域という共同体を維持していくためには平等にプラスなこともマイナスなことも割り振りされる必要があり、ある種の痛み分けのようなことがなされることで仲間意識や共同体意識が確立されていくのである。このときの「平等」とは、地域社会に参画する度合いの平等であるが、この平等は各々の自由な活動を制約するものでも同時にある。平等は特定の要求を主張し他のものを退ける場面で重要な役割を果たすため、地域においては「共同体を維持する」という目的を達成するために平等によって逸脱した行動に発展するような自由は制約されるのである。

しかし、このとき2つのことが問題になる。1つ目はこの平等は移住者が移り住む前につくられたものであり従う必要がある一方で平等の領域を変える=モノサシを変える権利もあるのではないかということ2つ目はモノサシ=領域が古くなっているにも関わらず共同体の人々は変化に気づいてないが移住者だけは気が付いており共同体の維持を目的に据えたままモノサシを変えることが提案できるのではないかということである。

よそ者としての客観的視点と能動性をもった移住者は地域の一構成員となった瞬間にモノサシの複数性を唱え平等の定義を変える権利を有する。共同体の維持という最終目標を達成するためには、在住年数というモノサシは退ける必要があり「郷に入っては郷に従う」ことを在住年数によって強制される必要はない。共同体の維持という目的のための平等としての郷に入っては郷に従えではあるが、目的達成のための手段としての平等には複数性があり時代の変化と構成員の変化によって郷に入っては郷に従えの基準が変化していくことが十分に考えられるのである。

このときに、ただ暴虐無人に領域の複数性を主張し変化を迫ってはダメであり先人を尊重しつつも少しずつ変化していくことを促す必要はもちろんある。大切なのは、共同体の維持という目的のために何を平等を図る変数として用いるのかの再確認作業をケースごとに行うことである。そうすることで、共同体内で明文化されていなかったルールが明文化され理解されやすい状態になり強制的な郷に入っては郷に従えではなく、共同体の明文化された平等のためのルールとして全員に伝えることが可能になるのである。

このときに、ケースごとに決められず曖昧なまま残ってしまうこともあるだろう。センは不平等の再検討の中で、評価する方法が複数になる場合、吟味されたうえで残っている曖昧さは曖昧なままはっきりと明示すべきと述べている。これは、不完全性が概念それ自体の性質由来かもしれないし、情報不在によるものかもしれないし、関係者の間で残ってしまう相違を尊重する必要によるものかもしれないからである。移住者の加入により多様性が増した地域の中では、ルールに明文化できない事柄も必ず生じてしまう。このときは、四役のような選ばれたトップが判断を行うかもしくはより上位の集団に判断をゆだねるという選択もありだろう。

まとめ-地域における平等と自由のバランスとモノサシの複数性-

まとまりのない文章になってしまったが、第2回の考察を通して明らかにしたかったことは「共同体維持という目的のため、地域における郷に入っては郷に従えという平等のモノサシは自由を制約するが、自由を制約する平等のモノサシは異なるモノサシに変わる可能性があるものであると同時に、これまでは明文化されてこなかった平等の基準としてのモノサシを明文化することが重要である」ということである。

多様性があるから尊重すべきということは簡単だが、実際に地域では平等のモノサシを決め特定の要求を主張しその他のものを退ける必要がある瞬間がある。そういったときに、一体どのような行動を起こせば目的を達成することができるのか、またケースごとの多様性を超えて相互理解を深め同じ方向を向くことができるのかを検討するために、アマルティア・センの『不平等の再検討』を一部参照しながら議論を進めた。

とっちらかった内容になったが、次回第3回目はもう少しまとまった分かりやすい内容になるように頑張りたいと思う。

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この記事を書いた人

KAYAKURA 編集部

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