壁の向こうの住人たちとは、いったい誰か。著者の米国社会学者A. R. ホックシールドはいわゆる「左派」の人であり、彼女の目からみて「右派」の人たちがこの作品では「壁の向こうの住人たち」と呼ばれている。
ホックシールドが調査フィールドに選んだルイジアナ州で出会った右派の人たちは、みんな優しくて親切だった。しかし彼らは左派が当たり前のように望んでいること―それは先進国の標準となりつつある―環境保護の許可に反対し、地球温暖化を信じず、貧困者や社会的マイノリティを政府が積極的に支援することに反対している。
多くの左派の人々は壁の向こうの住人たちに対し「彼らの意見は馬鹿げている」「トランプを支持するなんてありえない」という。しかし言っているだけで能動的に壁の向こうの住人たちとコミュニケーションをとらなければ、何も実態は見えてこない。
ホックシールドは二極化する米国の右派でいま何が起こっているのかを知るために、壁の向こう側の人々と直接会って話をして「なぜ」を解き明かすために、5年間計60人にインタビュー調査を試みた(文字に起こしたものは4000枚!にものぼった)。明らかになったのは彼らがいだく共通の”ディープストーリー”の存在だった。
調査地ルイジアナ州とはどんな場所か
ホックシールドが調査地として選んだルイジアナ州とはいったいどんな場所なのか。メキシコ湾に面するルイジアナ州は農業と石油関連産業以外に目立った産業がない。全米で最も貧しい州のひとつであり所得格差が激しい地域だ。
米国南部に位置するルイジアナ州は共和党最強硬派団体/運動ティーパーティの強固な地盤である。州内に立地する石油関連工場からの汚染物質の排出や相次ぐ大事故の発生で、州内では環境が汚染され続けており住むのに危険になった地域もある。このような状況下にありながら、ルイジアナ州や住民は頑なに連邦政府の環境規制に反対し、各種公的支援の充実にも反対している。
本書に登場する多くの人々が何らかの関係性をもつティーパーティとは総じて税金の無駄遣いを批判して「小さな政府」を推進しようという運動である。「アメリカ人の中核的価値への回帰」を訴える保守系独立政治勢力である。大統領選挙でも多くの人々がドナルド・トランプに投票した。ルイジアナ州はそんな場所である。
壁の向こうの住人たちがかかえるディープストーリー
筆者は多くの人々に取材をするなかで、あるひとつのディープストーリーがあることに気づくようになった。ディープストーリーとは「あたかもそのように感じられる」物語のことである。そこからは良識に基づく判断は取り除かれており、事実も省かれている。語られるのは、物事がどのように感じられるかのみである。
本書の192P以降、筆者はルイジアナ州での取材で見えてきたティーパーティーのディープストーリーを描いた。ここで描かれたストーリーは、現代日本を生きる私たちからすると信じられないストーリーかもしれない。しかしホックシールドが取材した人々は、総じてこのストーリーが、まさに自分のストーリーであると答えている。
「アメリカンドリームが待っている山頂の先に向かって長い列がある。あなたは、その山頂へと向かう長い列に並んでいて、いまはその真ん中にいる。後ろには有色人種や大学をでていない人たちが並んでいるが、列はなかなか進まない。
あなたは誇るべきものについて考える。キリスト教徒としての徳性、一夫一婦制の異性間結婚を支持してきた。昔のよりよい時代もそうだった。リベラル派は、それを時代遅れなどと批判するが、リベラル派は価値観自体がはっきりしない。
あれを見て!前方で列に割り込もうとしている人たちがいる!
黒人もまじっている。連邦政府が推し進める差別撤廃措置を通じて、大学やカレッジ、職業訓練や雇用、福祉給付金の支給、無料の昼食サービスでも黒人には優先権が与えられている。女性、移民、難民、公共セクターの職員たち、社会的マイノリティ、全くキリがない。
褐色ペリカンまであなたの前に並んでいる。化学物質による環境汚染のため、一次は絶滅の危機に瀕したが2009年に絶滅リストから外された。しかしそれは2010年にBP社が原油流出事故を起こす前の年のこと。今この鳥は汚染されていないきれいな水、魚、原油にまみれていない沼地を求めている。だから褐色ペリカンはあなたの前にな段でいる。動物なのに。
彼ら彼女たちはみんな、あなたより前に並んでいる。しかし、アメリカを偉大にしたのはあなたのような人々なのだ。あなたの友人達たち同意見だし、FOXテレビのコメンテーターもあなたの気持ちを代弁してくれる。なぜなら、あなたのディープストーリーはFOXニュースのディープストーリーでもあるからだ。
やがてあなたは、列の前方に割り込む者に、誰かが手を貸していることを疑い出す。そいつは、バラク・フセイン・オバマ大統領だ。オバマ大統領は列に割り込む連中に手を振って助けている。あなたは裏切られたと感じている。大統領はあいつらの大統領であって、あなたの大統領ではない。彼らはアメリカを誇りに思っていない。
アメリカンドリームに向かう列の動きが鈍っているいま、白人や男性や、聖書を信じるキリスト教徒を軽視する風潮が強まっているいま、誇りの根拠としてアメリカ人であることがかつてないほど重要だ。
あなたはアメリカ人であることに誇りを持っている。しかし大統領を通してアメリカ合衆国に誇りが持てないとしたら、新しい方法で自分はアメリカ人だと感じる必要がある。だとえばあなたと同じように、自国にいながら異邦人のような気分を味わっている人々と結束することで。」
最後に-『壁の向こうの住人たち』が私たちに問いかけること-
この記事を書いている2020年7月8日の数日前、アメリカ言語学会からのスティーブン・ピンカー除名運動が話題となっていた。ピンカーは著書の中で有害な行為に関して加害者、被害者、第三者のあいだにはほとんど必ず見解や説明にズレが生じるという現象をさして、これをモラリゼーションギャップ(道徳的見解の隔たり)と呼んでいる。
彼がBlack Lives Matterに関して被害者とされる側・加害者とされる側両方の視点から事態を把握し、”ただしさ” を見極めようとしたことが除名運動の理由であった。一連の動向をみながら、ホックシールドが『壁の向こうの住人たち』で行うおうとしたこととスタンスは、まさにピンカーのそれと同じだと感じた。
ホックシールドは左派の学者でありフェミニストである。しかし彼女はあえていまアメリカで起こっていることを”正しく”認識するために、南米ルイジアナ州へと足を運んだ。
ティーパーティー側の視点に立って世の中を見るとどのように見えるのか、彼らの主張はどんなディープストーリーによって支えられているのか、読者は彼女がみてきた光景をそのまま追体験することができる。追体験からはこれまで見えてこなかったアメリカのもう1つの側面―それは端からみたら到底理解できないようにみえたもの―が浮かび上がってきたのである。
いくつもの分断の中を生きる私たちは、到底理解できない他者の姿をメディアを通してみることがある。それは男尊女卑主義者かもしれないし、在特会かもしれないし、共産党支援者かもしれないし、新興宗教メンバーかもしれない。ホックシールドがルイジアナでみたのと同じように、彼らは壁のこちら側からみていても到底理解できないようにみえる。しかし壁の向こう側に立って彼らの視点から社会をみてみると、彼らのディープストーリーをみてみると1つの筋の通った物語が浮かび上がってくるのである。
理解できない他者を「理解できない」と切り捨てることは容易である。しかし「なぜ理解できないのか」「理解できない他者の背後には何があるのか」に迫ることで、簡単には切り捨てられない彼らのディープストーリーが浮かび上がってくる。容易ではない、しかしディープストーリーに迫ることでみえてくることがある。ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』は分断の時代を理解する1つのモノの味方を私たちに与えてくれる。