2020年7月24日、職員の新型コロナウイルス感染が確認された長野銀行小諸支店(長野県小諸市)にコンクリート片のようなものが投げ込まれる事件が発生した。県警は、職員の感染を理由とした嫌がらせの可能性もあるとみて、器物損壊容疑で捜査しているという。
このニュースが流れると同時にSNS上では以下のようなコメントが散見された。
「ほんと田舎こわい」
「田舎でコロナになったら家が破壊される……隣のおうちの人とかにも疫病広めた戦犯として忌み嫌われちゃうんだろうなあ」
「感染が判明した人の家や職場への投石・誹謗中傷。田舎ではもはや当たり前に起きていることだけど」
コロナ禍に限らず、こういった行為を「田舎だから」という理由で攻撃したり不安視したりする意見はよくある。第二次世界大戦後の地域政策でも「田舎の特徴」を近代化の遅れとみなし修正しようとしてきた歴史がある。
しかし、果たして上記のニュース記事だけで「田舎の排他性が今回の器物損壊事件を起こした」と言っていいのだろうか?SNS上で彼らが表明する言葉は「想像上の偏見への偏見」でしかない。本記事では「田舎への歪んだまなざし」という偏見の問題を明らかにしていく。
批判対象としての「田舎」「地方」とはいったいどこか
度々起こる大都市以外での少数者への攻撃行為とみられるものを「田舎ならではの偏見と差別」とみなす言説はSNS上でよくみられる。いや、SNS上に限らず世界中のどんな地域でもそういった声は少なからず聞かれる。
まず初めに検討すべきは「田舎的なもの」を攻撃する彼らが、地域を単純化しすぎているという問題である。「都市」と「地方」という言葉と二項対立は日本独自の用法である。世界的に稀にみる大都市一極集中が生み出した構図であり、「地方」に明確な定義は存在しない。
1800年代後半~1900年代にかけて活躍したドイツの社会学者G. ジンメルは論考「大都市と精神生活」の中で、地方の典型的な小さな町や田舎と比較して大都市の特徴を丁寧に分析しているが、注意しなければならないのは彼はどの程度の規模の地域が「田舎」であるかは定義していないことだ。
ジンメルは傾向として大都市は自由であり、田舎や小さな町は住民を取り囲む度量の狭さや偏見があると述べている。日本では戦後、政策的に、排他性が高く閉鎖的で同質性の高い共同体的な地域の在り方を変化させるためにさまざまな取り組みがなされてきた。それはある種の「都市から田舎/地方という遅れた文明を見下すまなざし」に基づくものであり、地域の多様性や固有性は無視するものであった。
こうしたマインドは現在にも引き継がれている側面がある。「地方や田舎が閉鎖性が高く排他的で、少数者に攻撃的である」と。しかし一部の大都市以外で起こるそれらしい出来事をすべて地方や田舎ならではの悪しき出来事と批判する人は、地域の多様性が見えておらず単純化しすぎている。
地方と一括りにしても人口が数十万人を超える地域は多数ある。また「田舎」と表すところでも漁村か山村か、宿場があったか無かったかなど歴史や地理によって特徴は全く異なるそれらをすべて一括りにし、大都市以外を「田舎」と決めつけ多様性を見ようとしないそのまなざしは、彼らが批判する田舎の度量の狭さや偏見と同じかそれ以上の偏見である。
「田舎の度量の狭さや偏見」と「具体的な事件」につながりはあるか
今回の長野県小諸市の器物損壊事件でみていくと上記の問題点はよりクリアになる。ニュースを観て批判する人の多くは「そもそも小諸市は田舎なのか?」という問いをいだいていない。小諸市の人口は2020年4月1日時点で41,525人である。東京23区と比べると圧倒的に人口は少ないが、全国で比べるとどうだろうか。
全国の自治体のうち小諸市の人口は1734市町村中、621位である。また小諸市の人口密度は421.36km²で全国の自治体では593位である。これは長野県の県庁所在地長野市の443.28km², 578位と大して変わらない。
ここまでみてきて果たして小諸市を単純に田舎ということはできるのだろうか?田舎という概念は相対的なものであるため一部の大都市住民からすると「田舎」かもしれない。しかしランキングからも分かるように、日本にある自治体のうち6割以上は小諸市よりも規模が小さい。これらの自治体からみたら小諸市は単純に田舎とは言えないだろう。
何より人口が約42,000人いる自治体に、彼らが想定するような「田舎的な排他性や閉鎖性」は存在するのだろうか?存在するとしたらそれはどの程度機能しているのだろうか?小諸市全体で起きていることなのか、中心部と山間部でもその程度は異なるのではないだろうか?
今回の事件が「田舎の度量の狭さや偏見によって起こった」と決めつけることができる理由は何一つ存在しない。推測と傾向で語ることはできるが、因果関係を示すことは誰にもできない。
このような事象に対して「田舎はこわい」「田舎でコロナになったら家が破壊される」「田舎では投石・誹謗中傷は当たり前」と簡単に言えてしまう人々の言動は、まさにそれ自体が世の中の多様性への想像力に欠けた、彼らが田舎的と批判する度量の狭さや偏見に基づく言動なのである。
残念ながら、そのことに彼らは気がついていない。
最後に-偏見を偏見で批判する虚しさ-
田舎の特徴としてこれまで語られてきたものと、実際の極端な事例をむやみに結び付けて「田舎だから起こった」と主張することは偏見である。「地方」「田舎」という言葉で語られるものはそれぞれ多様性のある地域であり、全てに共通する何かで強引に批判することは許されない。
小諸市の事件に関しては、もしかしたらTweetした本人は実体験として自身が田舎だと思う場所に住んだことがあり、偏見や排他性に基づく差別を受けたことがあるのかもしれない。確かに事実として相互の関係性の中で偏見や差別が起こることはあり、悪しき側面は変えていく必要もある。
しかし田舎に限らず都市においても同じようなことが起こる可能性はある。コロナの感染者が出た会社のガラスを割る人は、田舎だから現れたと断言することはできない。偏見を偏見で攻撃しても世の中の偏見は減らないからこそ、他者の多様性への想像力を養うために「知ること」をやめてはいけない。
参考資料
・共同通信社, 職員感染の銀行窓割られる、長野 器物損壊容疑で捜査.
・全国1741市区町村の人口ランキング・面積ランキング・人口密度ランキング
・G. ジンメル, 大都市と精神生活.